病院にて
先日、何年かぶりに豊中市民病院に行く機会がありました。近所の町医者に行くことはあっても、総合病院に行くことはめったにありません。午後2時ごろに行ったのですが、まず驚いたのが、患者さんがやたら多いことでした。コロナ禍で原則面会は禁止のようですので、面会者はそんなにいるはずもなく、ということはそこにいた大勢の人は何らかの病気にかかっている方々なのでしょうか。
大きな病院には独特の空気があります。病気にかかって不安な気持ち、病気が治って今後に向けた前向きな気持ち、いろいろな感情が交じり合ってはいますが、おそらく全体的にはマイナスの空気感になっていると思います。
私はこれまで4回入院したことがあります。今回はそのお話をしたいと思います。
・難聴の手術で入院(10年ほど前)
幼少のころから左耳が聞こえ辛かったのですが、何とかしなくてはと思いながらも、普段の生活に支障がないこともあって、忙しさにかまけてそのままにしていました。
あるとき、仕事の関係でどうしても資格(当時の呼び方では宅地建物取引主任者、いわゆる宅建です)をとらなくてはなり、勉強をする羽目になってしまいました。
試験の二週間前の時点で、勉強の進捗率は20%程度。何とかしなくてはと頭を抱えていた時にふと思いついたのが、難聴の手術で入院して、合理的に会社を休むということでした。
善は急げと、阪大病院で検査をしてもらうと、耳小骨が硬化しており、鼓膜で拾った音の振動がうまく伝わっていないことが原因のようで、手術をすればある程度は改善するとのことでした。
「どうします、手術しますか?」との問いかけに、迷うことなく「是非、すぐにお願いします」と答え、作戦通り1週間ほど入院することになりました。
手術は聞こえ具合を都度確認しながら行うため、頭部に局部麻酔をかけた状態で行われました。事前に、耳の後ろを切開し、頭蓋骨を一部砕いて行うと聞いていたのですが、実際にどうやって頭蓋骨を砕くかは聞いていませんでした。
いざ手術が始まると、局部麻酔で意識ははっきりしていますので、メスで耳の後ろを切開する感じがなんとなく伝わってきます。いやが上にも緊張が高まります。すると執刀医がおもむろに、
「じゃあ、始めるよ。ものすごい衝撃だけど、大丈夫だから我慢してね」と言いました。
「えっ、何、衝撃ってどういうこと?」と思った瞬間、頭蓋骨にバットで殴られたようなものすごい衝撃を感じました。それも一度で終わりではなく、二度・三度も。
一体全体、何が起きているのか理解できないまま、こちらは完全にパニックです。
術後に聞いたところによると、どうやらノミを使って頭蓋骨を砕いたようで、ノミのお尻の部分をハンマーで叩いたたたようです。
手術中は大変でしたが、術後は集中して試験勉強に励むことが出来ました。退院したのが試験の二日前、集中学習の成果があったのか、試験は無事合格しました。
・急性腸炎と痔の切除で入院(25年ほど前)
激務とストレスで急性腸炎になってしまいました。一歩も動けなくなり、病院までは歩いて5分ほどの距離だったのですが、生まれて初めて救急車に乗りました。
二日間の点滴で症状はすっかり良くなり、退院することになったのですが、先生が「君は少し痔の症状があるねえ。今は切らなくても処置できるから、この際、やっておきますか?」と痔の処置を勧めてきました。ゴム輪で痔核の根元を縛って血流を止めて痔核を壊死させる方法で、縛った状態で普通に生活ができるようでしたので、この際だからと処置することにしました。
退院して普段通りの生活を送っていたのですが、どうもお尻の調子が良くありません。痛くて痛くてたまらないのです。
どうにも我慢できなくなり、先生に診てもらったのですが「おかしいなぁ、うまくいかなかったのかなぁ」とイマイチ頼りなさげです。挙句の果てには「思い切ってきりますか~」と言われ、「この痛みがなくなるなら何でもやりますよ」とすっかり弱気になった私は、手術の提案を受け入れました。
手術自体はすんなりと終りましたが、術後一週間はトイレに行くたびに「う~、ギャー!」と悶絶地獄。今思い出してもぞっとします。とはいえ、手術のおかげかその後は痔になることもなく、今に至るまでお尻は快調です。
・虫垂炎で入院(38年前)
高校3年生の夏休みの終わりごろ、虫垂炎の手術で入院しました。
おなか周りに麻酔注射を打って、しばらくしてから先生が麻酔の効き具合を確認するために、おなかの皮をつねってきました。
麻酔が十分に効いていなかったのか、痛みを感じた私は「いててて・・・」と正直に答えたのですが、先生は「おかしいな。麻酔効いてるはずなんだけどなぁ。」と何度もつねってきました。そのたびに「いててて・・・」と、効いていないことを訴えたのですが、先生は痺れを切らしたのか「まぁ、いいか。始めようか。メス。」と執刀を始めてしまいました。
腹部にメスを入れるや否や、「ぎゃぁ~、いーたーいー!」と叫んでしまいました。そりゃそうです。麻酔が効いていないのですから。
急遽痛み止めの注射を患部周辺に何本も打たれ、なんとか事なきを得たのですが、生きた心地がしませんでした。
・ウイルス性髄膜炎で入院(50年前)
6歳の時、ウイルス性髄膜炎という病にかかりました。ウイルス感染によって生じる髄膜の炎症で、40度近い高熱が何日も続き、下手をすれば脳膜炎を併発して脳障害を引き起こすというやっかいな病気です。今でこそ治療法が確立されていますが、その当時、小児におけるこの病気の症例はまだ少なく、ほとんど手探りで治療を行なっていたようです。(後に私の症例は学会で発表されたとのこと)
発症時は急に熱が高くなり、インフルエンザの症状とよく似ています。インフルエンザだと思った母は、近所の町医者に連れて行こうとしましたが、どうも私の様子が少しおかしい。仕事で不在の父親に置手紙を残し、「頭が痛い、頭が痛い」と訴え続ける私を背中におぶって、取るものもとりあえず病院に向かったそうです。
母はよほど慌てていたのでしょう。自然と足は小走りになり、その振動が背中の私にも伝わってきました。
「母ちゃん、頭痛い。頭揺れて頭痛い」
か細い私の声を聞いた母は、はっと私の方に顔を向け
「ごめんなあ、頭揺れて痛かったなあ。ほんまごめんなあ」
と歩調を緩めました。しかし、歩くだけでも背中の振動は伝わり続けました。
「母ちゃん、頭痛い。動かんといて」
すっかり困り果てた母。歩く足を止めるわけにもいかず、気ばかり焦る母。
更に歩調を緩めゆっくりと歩き始めましたが、一刻も早く病院へこの子を連れていかねば、という強い意志は背中の私にも伝わってきました。
「ごめんなあ、ごめんなあ、もうちょっとやで。がんばるんやで。辛抱やで」
私のお尻をやさしく撫でながら、母は泣いていました。母は何も悪くないのに。
「母ちゃん、泣かんといて。頭痛いの治ったから」
すぐにウソだとわかる私の言葉に母はしばらく黙りこみました。そして声を絞り出すように何度もつぶやきました。
「ごめんなあ、ごめんなあ、ごめんなあ・・・・」
私の記憶はここまでです。その後病院に着いてからの記憶は残っていません。
母は時々あのときのことを思い出して懐かしそうに語ります。
「ホンマ、あの時はどうしようかと思うたんよ。父ちゃん仕事でいてへんし。転勤して来たばかりでご近所付き合いもなかったし。あんたが「頭痛い、頭痛い」言うの聞いて、あー、もしこの子が助からんかったらどうしよう。神様仏様、どうかこの子を助けてやって下さいって心の中で何度も祈ったんよ」
母ちゃん、あの時の母ちゃんのおかげで、あなたの息子は今もこうして元気に生きています。温かかった母の背中、優しかった母の言葉。
「ありがとう、長生きしろよ」
心の中でそっとつぶやき、遠くにいる母に思いを寄せるのでした。