駅伝少年
本来であれば、この原稿は正月の箱根駅伝直後に投稿するはずだったのですが、どうしても実レースのことを先に書きたくて後回しにしていました。
という訳で、今回は駅伝の思い出について書きます。
1978年1月2日。私が生まれ育った町(徳島市国府町の北井上)で、地区対抗駅伝大会が開催されることになりました。当時私は中学2年生でしたが、体育会系のクラブに所属しているというそれだけの理由で出場のお呼びがかかり、大会の1か月前からほぼ毎夜、近所のオッチャン達に交じって1~2キロの練習に汗を流しました。チームの中で私はいつの間にか主力メンバーに位置づけられるようになり、アンカーを任されるまでになりました。
大会当日、私にタスキが渡された時点でチームは2位。1位との差は50m以上あり、よほどのことがない限り逆転は無理であろうとあきらめかけていました。ところがバイクで伴走していた監督は、「大丈夫、絶対に追いつける。がんばれ」と、しきりに激を飛ばしてきます。どう見ても追いつくなんて無理だろうと思いながらも、走っているうちに前を走る選手の背中が次第に大きくなってきました。
ひょっとしたら追いつけるのでは、追い抜こうものなら優勝だよ、そしたらヒーローだよ、と期待に胸が膨らみます。
最後の交差点を左折し、ゴールまで数十メートルとなった時点でほぼ追いつけることを確信し、ゴール手前10メートルで横に並ぶと一気に加速。ゴール直前で抜き去りそのままゴール。鮮やかな逆転勝利でした。
この時の写真は今でも実家に残っています。苦しそうな表情でゴールのテープを切る私。真っ赤なトレーナーと真っ白な短パンに坊主頭。ゴールの横では若かりし母が満面の笑みで拍手しています。
チームのオッチャンたちは大喜び。その夜に開かれた祝勝会でシャンパンをいやというほど飲まされ、挙句の果てに酔いつぶれたことは、今となっては良い思い出です。のんびりとしたいい時代でした。
小さな地区でしたので、駅伝大会での逆転劇のことはあっという間に広まりました。そんなある日、学生時代に柔道かラグビーをやっていたであろうことが容易に想像できるマッチョな体育教師が、おもむろに「今度うちの学校でも駅伝チームを作ることになったからお前も出ろ」と声をかけてきました。3年生は受験間近ということもあって、集められたメンバーはほとんどが2年生でした。大会まで2・3週間しかなく、その日から急造駅伝チームのメンバーは放課後に毎日特訓を受ける羽目になりました。
まず2キロほど軽く足慣らしをして、1キロを全力疾走するインターバルを5本繰り返します。メンバー全員が最初の2キロを走り終えた時点で、息も絶え絶えになりましたが、熱血体育教師はそんなことはお構いなしです。おなかの中は空っぽなので、吐いても胃液しか出てきません。拷問に近い練習に泣きそうになりましたが、不思議と辞めたいとは思いませんでした。ひょっとしたらM気質はこのころに醸造されたのかもしれませんね。
さて、大会の結果ですが30校程の参加でわが中学はビリから2番目。私自身は任された区間で2人追い抜いたのでまずまずといったところでした。結果はどうであれ、レースの楽しさを十二分に満喫することができ、来年は受験前だけど必ず出場してリベンジしようと、メンバー一同固く誓いました。
それから1年後、メンバーは再び大会出場を目指してハードなトレーニングに汗を流しました。熱血体育教師は相変わらず容赦なく愛のむちを振ってきますが、M度がよりパワーアップした私はそれに耐えました。
一方で、大会が受験を間近に控えた12月ということもあって、両親はやきもきしていたようです。後に知ったのですが、放任主義であった母にしては珍しく、受験前の配慮が足りないのではと、担任にクレームを申し入れていたそうです。
そんな母親の心配をよそに大会への準備は着々と進んでいきました。私は最長距離の5kmを走る「花の1区」を任されました。
やるべきことはすべてやった。後は大会本番を待つのみ。
ところが、大会の前日の朝、目が覚めるとどうも体がだるく熱っぽい感じがします。幼少のころから熱が出るとなると極端に高い熱がでることはままありましたが、この日も40度近くまで上がりました。夕方になると熱血体育教師と担任の先生がわざわざ見舞に来てくれましたが、私の様子を見るなり出場は無理だと判断したようで、後は母親と志望校の相談をしていました。
大人たちの会話を聞きながら「出られないのか。代わりは誰が走るのだろう。そうか、もうすぐ受験なんだな」と間近に迫った現実について思いを巡らせていました。
よもや遠い将来、ウルトラマラソンの初レース(宮古島ウルトラマラソン)の前日に高熱を出し、出場を断念する日がこようとは、15歳の私は知る由もありません。その話はいずれまた。
でも、あの日の駅伝少年が、こんなにランニングにドはまりするなんて、灌漑深いものがあります。
「おい、15歳の自分よ。大会には出られなかったけど、君が駅伝に打ち込んだおかげで、幸せの時限爆弾が動き出したぞ。これからの人生で嫌なこともたくさんあるけど、35年後に時限爆弾が爆発して、幸せなランニング生活が送れるようになるから、楽しみに待ってろよ」
さて、15歳の自分に伝わったかな?