思わずハッとしたこと
最近、思わすハッとした文章に続けざまに出会いました。
まず一つ目は、ノンフィクション「デス・ゾーン栗城史多のエベレスト劇場」の帯に書かれた講評文です。小説を読み終えてから、帯に書かれた文章を見て、最近疑問に思っていたことが、スッと腑に落ちました。
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両手の指9本を失いながら“七大陸最高峰単独無酸素”登頂を目指した登山家・栗城史多氏。エベレスト登頂をインターネットで生中継することを掲げ、SNS時代の寵児と称賛を受けた。しかし、8度目の挑戦となった2018年5月21日、滑落死。35歳だった。
彼はなぜ凍傷で指を失ったあともエベレストに挑み続けたのか?
最後の挑戦に、登れるはずのない最難関のルートを選んだ理由は何だったのか?
滑落死は本当に事故だったのか? そして、彼は何者だったのか。
謎多き人気クライマーの心の内を、綿密な取材で解き明かす。
この本は、今年の「第18回 開高健ノンフィクション賞」を受賞しています。
ハッとしたのは、選考委員の一人である、法政大学総長・田中優子氏が書かれた次の文章です。
「栗城氏の姿は、社会的承認によってしか生を実感できない現代社会の人間の象徴に見える」
私がブログを始めたのは、「ブログを見た人が、少しでも何かにチャレンジするきっかけになれば」との思いからですが、一方で「一人でランニングを楽しめばそれでよいのではないか」というジレンマもありました。ブログを始めて半年たちますが、何か釈然としないものを感じていました。
田中氏の文章を読んでハッとしたのは、私自身が「社会的承認」を欲していたことに気づかされたからです。人間の欲求というものは、どんどん膨らんでいくもので、そもそもランニングを始めたきっかけが、マンネリ化した日常からの脱却という一面があったのですが、それさえも日常化してしまい、更に新しい欲求を追い求めているのだと思います。
栗城氏も私も同類なのかもしれません。ただ、社会的承認を求めること自体は悪いことではないと思います。それを自覚したうえでどう行動するか、そこが大事なのではないでしょうか。
皆さんは、何をもって生を実感しますか?
二つ目は、日経新聞に掲載されていた鬼滅の刃に関する、東京都立大学教授・宮台真司氏の以下の文章です。
作中の鬼は現代人のメタファー(隠喩)。自分だけがかわいく、食欲と(閉じた組織内の出世という)上昇志向の塊。これに対し主人公らは勝ち負けの計算や見返りの打算なく挑み、弱いものを守ろうとする。
確かに周りの人々の言動や、メディアに取り上げられる事件や話題を見ても、「自分だけがかわいい」は、やたら目につきます。
社会全体が疲れており、余裕がなくなってきているのかもしれません。
私自身もそのような一面があることは自覚しています。先の「社会的承認」も突き詰めれば「自分だけがかわいい」に繋がるのかもしれません。
見返りを求めず、姑息に策を弄さず、奥さんに優しく・・・、あぁ、出来ていない。
炭治朗や煉獄さんみたいにはなれそうもないですが、心がけは忘れないようにしたいと思います。
最後は、以前に紹介した徹夜本「百年法」の著者である山田宗樹氏の最新小説「シグナル」に書かれた「時間」についての一文です。
皆さんは、「時間はいつ始まり、その終わりはどうなっているのだろう」と考えたことはありませんか。少し具体的に言うと「この世界(宇宙)が始まった瞬間より前はどうなっていたのだろう」とか「この世界(宇宙)が終わった後はどうなるのだろう」とか。
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『百年法』『代体』の著者が放つ“アオハル”SF長篇! 彼らは来るのか?
それは破滅への予兆か、人類への福音か――。
電波天文台が奇妙な信号を捉えた。
調査の結果、三百万光年離れたM33さんかく座銀河からの人工的電波だとわかり、人類史上初めて地球外知的生命が確認されることとなった。
(中略)
「彼ら」は地球にやってくるのか? 果たして人類の運命は――。
ハッとしたのは、主人公と先輩が「時間が存在しない」ことについて語り合った次の文章です。
時間は、直接計測することが出来ません。僕らが測れるのは、時計の針や数字、その他もろもろの変化だけです。そういった変化を<時間>という概念で捉えている。
物事は<時間>の流れの中で展開するのではなく、物事が展開することで<時間>が生じる。わかりやすく言うと、僕たちは<時間>の中で存在しているのではなく、僕たちが存在することで<時間>が生まれる。
乱暴な喩えを承知で言えば、時間は風だ。
風というものは存在しない。でも、風が吹けばちゃんと感じるし、枯葉だって舞い上がる。
感じるのは、大量の気体分子がぶつかるときの衝撃だ。枯葉を舞い上げるのもそう。風とは、窒素、酸素、二酸化炭素などの気体分子が、熱や重力に起因するさまざまな圧力傾斜に沿って移動するとき、周囲に及ぼす影響の主体として仮定された概念に過ぎない。
風という流れがまず存在して、その流れに乗って気体分子が動いているのではなく、気体分子の集合的な流れを、僕たちが<風>という概念で捉えている。
時間も同じなんです。時間という流れが存在して、その流れの中で物事が発展しているのではなく、物事の集合的な展開が、僕たちの中に<時間>という概念を生み出す。
どうでしょう。わかったような、わからないような・・・。風の喩えでなんとなくわかったような気がするのですが。
私の疑問「始まる前と終った後はどうなっているのか」の答えは「何もない」ということになるのでしょうか。「無」の状態なので、物事が何も展開されず、影響も及ぼさない、つまり「この世界(宇宙)が始まる前と終った後は、時間はない」ということなのでしょうか。
こんなことを考えながらランニングをすると、あっという間に何キロも走ってしまいます。「時間」は長くなったり、短くなったり。「時間」は「実態」ではなく「概念」だということを実感した今朝のランニングでした。